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【3】アメリカの地での第一歩:留学生活の始まりと出会い

更新日:6 日前

七転八倒・悪戦苦闘 アメリカ留学「立ち上げ」日記③

20年前の留学体験から学ぶ、今に通じるリアルな教訓

 

ノートパソコンから見つけ出した20年前の留学準備記録。当時の私のラボ選びや留学初期のエピソードが蘇る!第3回目は「アメリカの地での第一歩:留学生活の始まりと出会い」です。ぜひご覧ください!

 

第2回目はこちら!

【2】留学準備のリアル:研究費ゼロからの出発

【3】アメリカの地での第一歩:留学生活の始まりと出会い

 

1.渡米当日

2005年4月11日、いよいよ渡米当日となった。実はその3日ほど前に勤務先のあった金沢市から、私の実家である川崎市へ、単身戻っていた。幸い実家の2階に空いている部屋があったので、家具類は私の実家に置かせてもらうことにした。また、アメリカでのアパート探しと、生活のセットアップができるまで、妻と子供は、妻の実家で待機することにした。

 

渡米当日、東京地方はあいにくの雨だった。飛行機は夕方出発だったので、昼前まで実家で様子をみていたが、結局雨が上がることはなかった。天候も影響してか、私の飛行機は1時間遅れでの離陸となった。

 

約10時間の飛行の末、私は再びロサンゼルスの地に下りた。半年振りのカリフォルニアは、抜けるような青空だった。空なんてどこで見ても同じはずなのに、日本のそれとはまるで異なる青さを感じた。

 

前回同様、留学先にいた日本人研究者の方が空港まで迎えにきて下さり、前回同様、ホテルにチェックインをした。ただ今回は、1日もはやくアパートを見つけなくてはならないので、さっそくアパート探しに向った。最初にも述べたが、研究所はビバリーヒルズやハリウッドが目と鼻の先。必然的に家賃も高くなってくる。アメリカのアパートは1BR(ワン・ベット・ルーム)という呼び方を用い、日本でいう1LDKに相当する。私は1BRを探していたのだが、なかなか空きがない。しかも平均的な家賃が、私が調べた限り$1450であった。当時1ドル=109円だったので・・・東京のど真ん中と同じか、高いくらいの家賃である→注釈:2024年現在、物価はどんどん上昇し、今ではこの価格ではアパートは見つからないでしょう

 

2.渡米第1週目

最初の1週目は、アパート探しや事務手続きに追われた。部屋の方はなかなか1BRの空きがなく、4日かけてようやく$1225という好条件の部屋を見つけた。家賃について付け加えておくと、この家賃には、駐車場代と水道代が含まれている。また部屋には冷蔵庫、オーブン、エアコン、ストーブ、食器洗浄機などが、地下には共用の洗濯機と乾燥機が付いている。自分で払う光熱費は、電気と電話程度である。このアパートはオール電化だったのでガス代はかからない。研究所まで徒歩5分という条件も考慮すると、$1225なら悪くはない話である。

 

ただ、大きな問題が一つあった。この最適の物件が空くのが5月1日だというのだ。まだ2週間以上も先の話である。ちなみにこの時、2BRで$1600というアパートも見つけていた。こちらは明日にでも入れると言われていた。どうするか。月$375も違えば、年間で$4500も変わってくる。これだけあれば、親子3人で日本を往復できてしまう。4日目にして疲労困憊だった私は、明日に入れる2BRを契約したいところだった。しかしながら、ここは一つ我慢をして5月1日まで、アパートが空くのを待つことにした。言い換えれば、残り2週間以上、ホテル暮らしをすることを決意した。

 

アパート探しの苦労とはうってかわって、他の事務手続きは、どれもスムーズに進んでいた。アメリカではソーシャル・セキュリティー・ナンバー制度が導入されており、ようは国民一人一人に「番号」が割り当てられている→注釈:当時、日本にはまだマイナンバーカードはなかった。大学でいうところの「学籍番号」のようなものだ。この番号がないと、基本的にはなにもできない。免許証も、銀行口座も、電気も、なにも利用できない。幸い、研究室のスタッフやポスドクの方が交互で、私の面倒を見てくれたので、番号の申請も銀行口座の開設も、簡単にできた。感謝の言葉をいくら言っても足りないくらいだ。

 

2.渡米第2週目

先にも述べたように、しばらくホテル暮らしをしなくてはならない。この時、1泊$75のホテルに泊まっていたのだが、ここに計20日も宿泊すると、$1500もかかってしまう。さすがにこれは馬鹿らしい。そこでホテル近隣のUCLAに留学していた友人に相談し、もっと安いホテルを紹介してもらうことにした。そこはハリウッドにあるホステルで、1部屋8人だが、一泊$20というホステルであった。

 

滞在していた最初のホテルから、次のホステルまではその友人が車で送ってくれた。しかも、その後リトルトーキョーまで足を伸ばして頂き、1週間ぶりに和食を食べる機会を与えてくれた。お茶漬けがこんなにも美味しかったとは想像もしていなかった。

 

(a)    ホステルでの出会い ~その1~

さて、いよいよホステルでの共同生活が始まった。当然、毎日ラボには行かないといけないので、バスでの通勤となった。朝は道路が混んでいるので、45分ほどの通勤時間であった。

 

ラボからの初めての帰りのバスの中でのこと。どの停留所で降りれば良いか分からなかった私は、相当キョロキョロしていたらしい。それを見た向かいに座っていたおじいさんが、「ハリウッドに行きたいのか?だったら次で降りたら良いんだ」と、ゆっくり丁寧に英語で話してくれた。「おお!さすがアメリカ!みんな親切だ」と感激していた。それをきっかけに、その老人とのおしゃべりが始まった。

 

彼は日本が好きで、ちょうど先週、日本へ旅に行ってきたらしい。箱根を回ってきたと言っていた。また彼が言うには、私が滞在するホテルの目の前に住んでいるらしい。バスを降りても彼との会話は弾んだ。私がアメリカで何をしているか、日本の家族はどうしているか、など世間話に花が咲いた。ふと彼が「どうだ、私の家に来ないか?」と言ってくる。一瞬耳を疑った。同時に「これは絶対行ってはいけない」と思った。

 

私が丁重にお断りすると、彼も無理は言わず「そうか、悪かった。ところで、アメリカは好きか?」と話題を転換してくる。「無難に好きですと答えておいた。その後私は、「ちょっと買い物があるから」と言ってその場を立ち去った→注釈:実はこれには、もう一つ裏話があるのだが、ブログでの紹介は差し控えたい

 

(b)    ホステルでの出会い ~その2~

ホステルにやってくる客はだいたい学生か若者で、2~3日の滞在で出て行ってしまう。おもに一人旅を満喫する若者で溢れている。国籍も多様でアメリカ人は皆無に近く、韓国、ドイツ、オーストラリア、スウェーデン、イギリスなどの若者と出会った。もちろん日本人も何人もいた。

 

その中で、Nileというドイツ人男性とゆっくり話す機会があった。彼はもともと大学で経済学を勉強していたのだが、法学にも興味がわき、lawyerを目指しているらしい。今はアメリカの法律を勉強しにサンディエゴに来たのだが、余った時間でアメリカを回っていると言っていた。Nileが私の研究にも興味を示したので、過去にどういう勉強をし、今回どうやって留学したか、また留学先ではどういう研究をするのか、といった話を紹介した。すると彼はしきりに私を羨ましがった。なぜかと理由を尋ねると「私はきっとドイツでしか働けない。国が変われば、法律も言葉も変わる。本当は世界各国で働きたいが、とても異国ではlawyerとしては食ってゆけない」と言うのだ。

 

第三者に言われて初めて気づいた。我々研究に携わるものは、(臨床ではなく)基礎研究であるかぎり、どこの国でも技術と知識を生かすことができる。また、客商売ではないから、ちょっとくらい言葉が通じなくても、大きな問題は生じない。まさに自分の手とピペットマンさえあれば、どこででも研究活動はできるわけだ→注釈:Ph.D.は世界で通じる肩書きである。Ph.D.の重要性については改めて議論したい

 

Nileにはその環境に大変憧れたようだ。お互いのメールアドレス交換をした時に、私はノートに「Nile、法律家」と書き留めた。それを見た彼が「この日本語は僕の名前?」と聞くので「いやいや、lawyerの意味だよ」と答えた。「そりゃいい、僕のノートにも書いてくれ」と言うから、私の下手な字で「法律家」と書くと、大切そうにしまってくれた。次の日の夕方、私がホステルに帰ると、彼は既にチェックアウトしていた。彼とはまたどこかで出会いたいものだ。

 

(c)    ホステルでの出会い ~その3~

8人部屋で一泊$20のホステルは、極めて経済的である。1階には大きなキッチンと、大きな冷蔵庫が2つある。コーヒーやお湯は飲み放題だし、食器類なども全部揃っているから、みんな自炊をしている。出会った気の合う仲間で食事に出たり、部屋同士での交流もあるなど、いかにも青春を謳歌している、と言った感じだ。一ヶ月滞在しても$600程度だから、「ワイルドな人なら、ここで2年間の留学生活が可能なんじゃないか?」と思うほどだった。

 

しかし、欠点もある。8人部屋というのは、2段ベッドが4つ準備されている。この構造が結構弱く、寝返りをうつだけでかなり揺れるのだ。部屋こそ10畳くらいの部屋だが、プライバシーは一切ない。貴重品も全て自己責任で管理。「旅の恥は掻き捨て」なのかどうか知らないが、中にはテンションが上がって、大騒ぎしいている人もいる。私のように、昼は職場に行き、夜はベッドでゆっくりしたい、という客はほとんどいなかったように思える。この落ち着かない雰囲気に、私は少々疲れを覚えていた。

 

ある夜2人のイギリス人男性が、ふらふらになって部屋に戻ってきた。夜中の2時頃だろうか。一人は私のベッドの上の段の客だった。部屋にいた我々は静かに寝ていたのだが、そのうちの一人が怒り出した。「Hey! Man! Hey Man! 何時だと思ってんだ。皆寝てんだ静かにしろよ!」と、かなりきつい口調でいうのだ。2人は自分達が悪いのはよく分かっているらしく、大人しくベッドに入った。

 

そして事件は起きた。

 

私の上で寝ていた男性が、ベッドの上で「もどし」始めたのだ。「ちょっと待ってくれよ!」さすがの私も日本語で叫んだ。部屋の明かりをつけると、ベッドの上の段は大変なことになっている。先ほど怒っていた彼は、さらに激怒し「Hey! Man! Hey Man! 外で寝ろ!」と厳しい口調で怒鳴った上、いわゆる”F” wordを連発してくる。今にも殴り合いの喧嘩になるかと冷や冷やしていたが、気のやさしい別の外国人が、もどした彼を介抱してくれた。ホステルには様々な客が集まる。改めて認識させてくれる出来事であった。


 

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3.渡米第3週目

いろいろな「出会い」をホステルで経験した私だが、実は渡米第3週目は、また宿泊先を変えることになった。今度はなんと!?Dr. Koefflerの自宅に居候することとなった。アメリカ人からみて、「ホステルで共同生活」というのは、かなり信じがたい光景らしく、相当私に同情してくれていたらしい。日本人研究者の方の助言もあり、お言葉に甘えて、教授宅にお世話になることにした。

 

Dr. Koefflerの家はすごかった。医学部教授なだけのことはある。映画に出てくるような豪邸だった。ベンツを含め車が3台。庭にはプール。その奥には照明付きのテニスコート。裏山には様々な果実を栽培しており、オレンジやレモン、グレープフルーツを好きなだけ食べさせてもらった。

 

最近、Dr. Koefflerのお嬢様が別の州の大学に入学されたらしく、お嬢様の部屋が空き部屋となっていた。私はこの部屋に寝泊りさせてもらうことにした。この部屋も立派で、テレビはもちろん、バスもトイレも付いているのだ。Dr. Koefflerの奥様もまた立派な方で、全米屈指の弁護士だそうだ。Dr. Koefflerより名が通っていると言われるほど有名な弁護士らしい。大きな品の良い犬も3匹ほど飼っている。大変人懐っこい犬で、初めてあった私にも尻尾を振って飛びついてくる。きっとこの犬達は、私より良い生活をしているに違いない。

 

Dr. Koefflerの家は山の中にあり、研究所までは車で30分ほどかかる。私は居候をしている間、どうやって研究所まで通ったか?それはDr. Koeffler本人が運転するベンツに同乗させてもらったのだ。なんとも贅沢な話である。逆にこれだけ「先行投資」されていると思うと、少々プレッシャーすら感じてしまう。

 

続きは

へ続く!



 

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