【2】留学準備のリアル:研究費ゼロからの出発
更新日:10月2日
七転八倒・悪戦苦闘 アメリカ留学「立ち上げ」日記②
20年前の留学体験から学ぶ、今に通じるリアルな教訓 ノートパソコンから見つけ出した20年前の留学準備記録。当時の私のラボ選びや留学初期のエピソードが蘇る!第2回目は「留学準備のリアル:研究費ゼロからの出発」です。ぜひご覧ください! 第1回目はこちら! |
【2】留学準備のリアル:研究費ゼロからの出発
1. 研究費が取れない!
一応の生活費の補助が確約されたとはいえ、研究費を獲得できれば、それにこしたことはない。10月以降の段階で申請できる財団がいくつかあったので、申請書類を準備した(ちなみにこの時期では、学術振興会の海外特別研究員の募集は終わっていたので、今年の申請は断念した)。
一番大変だったのは、国際的な助成団体であるヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)への申請だった。詳細は当財団のHPを見ていただければ分かるが、全部英語で申請しなくてはならない。Research Planとして10,000字程度、Achievement and Research Goalとして5,000字程度。その両者に対して1,000から1,500字程度の要旨を書かなくてはならない(→注釈:当時と現在ではかなり制度が変わっている可能性があります。最新情報はご自身でご確認ください)。アメリカへ留学しようと言っている人間が、こんなところで弱音を吐いている場合ではないが、新しい分野の研究計画を英語で立案するというのは、なかなか大変な作業であった。
結果、全て取れなかった。自分でも無理があるのは分かっていたが、やはりショックはショックである。不採択の事実を隠していてもしょうがないので、 Dr. Koefflerに正直に話した。すると” I know it will be very hard for you to get one. I like your energy.”との返事を頂いた。本当に励まされる言葉であった。
2. 写真が撮れない!
研究費が取れないとはいえ、留学はできるのだから幸せな話である。私には妻と1歳7ヶ月(当時)の子供がいる。親子3人でのアメリカ生活である。先方から「書類の作成を始めるから、全員のパスポートのコピーを送って欲しい」との連絡が来た。私と妻はパスポートを持っていたが、子供の分がないので準備しなくてならない。これが一苦労だった。当然だがパスポート申請には顔写真が必要だ。1歳7ヶ月というと、言葉が通じない上に、中途半端に動けるから落ち着きがない。自動証明写真の機械に座らせてはみたものの、小さなボックスに入れられるものだから、怖がって大泣きする始末。結局写真は撮れず、家に帰って作戦を練り直した。
結局のところ、家で撮影することにした。我が家にはデジタルカメラがあった(→注釈:当時はスマートフォンが存在しておらず、デジタルカメラが主流であった)。子供の顔写真をなんとかデジカメで取れないだろうか?部屋の壁(無背景)をバックに、子供の機嫌を取りながら、適切なサイズになるように何枚も撮影した。ようやく正面を向き、影もなく、適切な大きさの写真が取れた。しかしそれは、「鼻垂れ小僧」の顔だった。多少風邪気味だったのは分かっていたが、会心のワンショットで鼻が出ているとは・・・。でもこれしかなかったので、仕方なく現像に出し、パスポートの写真にすることにした。ー人生最初のパスポート写真は鼻が垂れていたー 数年後、我が子にこの事実を伝えると、なんと言うだろうか?(→注釈:あれから20年近く経過しているが、息子本人がこの事実に気づいているかは不明。)
3. 書類が来ない!
研究者がアメリカに留学する場合にはビザが必要で、本人はJ1ビザが、家族にはJ2ビザが必要となる。ビザの申請には留学先からのDS2019(J1交流プログラムの雇用主が一定期間にわたって申請者を受け入れることを保証する証明書)が必要になる。この書類の作成だけは、留学先(つまりCedars-Sinai Medical Center)に委ねるしかない。アメリカの事務手続きは進行が遅いと聞いていたので、年内(2004年12月)に書類作成の依頼を出しておいた。
予想通り、待てど暮らせど一向に送られてこない。秘書の方に何度か問い合わせても「今やっている」という返事ばかり。ビザの申請には、在日アメリカ大使館に行って、面接を受けなければならない。早く面接の予約を入れたいのだが、DS2019が送られてこないことには予約も入れられない。年もとっくに明けて2005年2月半ばになっていた。4月には留学すると言っているのに!痺れを切らした私は、見切り発車で3月上旬に面接の予約を取り、その期日を留学先に伝えた。
その結果、面接日の3日前に書類は到着した。やればできるじゃないか!最初から強引に面接の予約を入れて、先方をせかしていれば、もっと早く到着したのかもしれない。とにもかくにも、書類は全部整った。あとは面接のみとなった。
4.写真が撮れた!
ところで、ビザの申請にも顔写真が必要となる。今回も子供の顔写真に苦労するかと思いきや、すんなり撮らせてくれた。前回の苦労から4ヶ月しか経過していなかったが、この4ヶ月で子供は成長し「写真を撮る」ということを理解していた。イスに座らせ「はい!ニッコッパー!」というと、レンズをちゃんと見るのだ。この時期の子供の成長には、本当に驚かされることが多い。
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5.ビザが来た!
2005年3月、ビザ申請のため、東京の在日アメリカ大使館へ面接に出向いた。国内には3箇所しか面接会場がないので、金沢市に住んでいた我々にとっては、交通費だけでも馬鹿にならなかった。
平日にもかかわらず、大勢の申請者が、大使館の前で列を作っていた。門を入るのにも、建物に入るのにも、空港と全く同じ手荷物検査と金属探知が行われた。さすがに厳しいチェックである。
検査をクリアーし、ようやく会場に入れた。「いよいよ面接。」妻と二人で緊張しつつ名前を呼ばれるのを待っていた。待つこと約20分。「呼ばれた!」映画館のチケット売り場のような、ガラス越しのカウンターへ呼ばれた。するとアメリカ人係員は上手な日本語で「ハーイ!○○くん(我が子の名前)!僕らアメリカ人は、日本人と同じだよ。なにも怖がることないからね。」と言って、書類にサインや印鑑らしきものを押した。そして「ハイ、ご苦労様でした。」え?これで終了?面接とは名ばかりで、どうやら郵送申請から、直接申請にシステムが変わった程度のことだったようだ。いわゆる我々が想像するような「面接」ではなかった。ちょっと拍子抜けした感じである。その3~4日後、無事3人分のビザが発行され、自宅に郵送されてきた。渡米3週間前のことであった。
6.私の人生に留学は必要か?
ここまで何も考えずに、留学の準備を進めていたわけではない。根本的な悩みはあった。
「私の人生に留学は必要か?」
この疑問は寝ても覚めても付きまとっていた。当時の指導教官からは、是が非でも海外留学を進められていたし、周りを見ても、学位取得後に海外へ留学する人は半分くらいいた。先方から経済的支援を受けたにしても、絶対に赤字になるのは目に見えている。子供はどんどん成長するから養育費も確保しなくてはならない。あらゆる危険を冒してまで、海外留学する必要が本当にあるのだろうか?
ある時、古い友人に留学するか否か、悩みを相談した事がある。彼からは「経済的には厳しいかもしれないけど、一度きりの人生だから思いっきりやってみるのが一番じゃないだろうか。金銭面は取り返しが聞くが、時間と機会のロスは二度と取り戻せないからね」とコメントをもらった。また別の友人からは「家族のために夢を諦めて後悔して過ごすならば、それは家族のためではないと思う」と助言をもらった。彼らの言葉に背中をポンと押された気がする。持つべきものは友人であると実感した瞬間であった。10年後、今この瞬間の選択に対して、果たして私は満足しているだろうか?(→注釈:この記録の執筆時から20年経過した。これに関しては別記事で「ふりかえり」を記したい。)
次は
へと続く
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